理念と歴史



我が空手道部は東京オリンピックの年昭和39(1964年)から製薬科一期生の10名位で空手道同好会としての準備を始めた。しかし、右翼的で危険な同好会としてその年は認可されなかった。翌40年志田先生を顧問にたて、男子部部長であった長瀬先生のお力添えもあり、再度申請して認可された。即ち当時はクラブの認可は今の学生部様な部署が行っており、学生自治会と分離していた。今日のような制度となったのは移転し男女が同一キャンパスになった時からである。



 我が空手道部は2学年後期から活動に入った。監督と指導は同期青柳 誠君(初段か二段?)と彼の兄によって行われた。その時の彼らが所属していた流派が空手道同好会の流派となった。

 当然、道場も練習用資材も皆無のため、校庭の片隅や研究棟の屋上で手作り用具を使用し練習を行った。時には屋上の手すりで逆立ちをして大学からお叱りを受けた事もあった。

 大学近くで家の立て替えがあるという噂が入ると部員は先方におもむき、柱や畳を無償で貰ってかえり、手作りして練習用具とした。これらの練習用具は暫く雨晒しであったが、辛うじて研究棟の一階に屋根のあるごみ置き場様の空間を一部借りることが出来、用具の雨露がしのげるようになった。



 1970年代の安保闘争時、東京薬科大学内にもその動きがあり、俗に言う東薬パイプ爆弾が男子部学内で発見された。この事件は空手道同好会にとって大きな転機となる出来事となった。

 この時代では学内は治外法権であるという気運があり、校門前で学内に入る警察官隊と学生の衝突が頻繁に起こっていた。本学でも同様であり、警察官による爆発物の撤去、実地検証が行われる事になり、反体制派学生と学内は騒然となった。

 この警察官学内立ち入り時に、空手道同好会は警官隊が入校する道筋へ分散し、警察官隊に背を向けデモ隊を威嚇し、無事学内作業を完了させた。この行動で大学側からの空手道同好会を見る目が完全に変化してきた。



 昭和51年(1976年)に新宿区柏木(現西新宿)の男子部と上野桜木町の女子部が現キャンパス(八王子)に移転することが決定し、キャンパスの設計時に当たり、クラブの部室、道場、コート等の割り当ては昭和48年(1973年)時点で「部」となっていることが必要条件となった。教職員にもこのリミットがあり、昭和48年以前の教職員と49年以降の勤務に移転に伴う優遇処置に大きな差が出来た。

 急遽、このタイムリミットの1年半前より空手道同好会から空手道部昇格への働きを始め、遂に昭和48年の「部」への昇格に成功し、新キャンパスに移転後、道場が持てる様になった。



 男女同キャンパスなった後も暫くは男所帯でしたが、池谷夫人となった旧姓神原さんが初めて女性プレーヤーとして入部し、マネージャーやプレーヤーとして女子部の人材が増え、今日へと発展してきた。生命科学部の保田さんが主将の折は空手道部執行委員全員が女性であった事もあります。即ち執行する3年男子部員0人であったからです。



 同好会時代を含めると39年、部昇格して31年(2004年時点)と40年近くの歴史を持ち、先代の先輩方を重んじることで己の心を育んでいます。







余計なことを一言

 道場の神棚について

 道場が開設され、共同で使用する剣道部との練習日などについて話し合いが行われていた頃、空手部は神棚を入口より見える現剣道部神棚を選ぶ気運があった。

 部員の一人に「神棚の向きは東又は南向きが常識、神社や社の向きをよく調べて神棚の向きを決めたら良い」、仏具の設置向きは西・北方面なっているとのアドバイスしておいたら今の東向きに決まり剣道部には申し訳ないが、過去の部員として安心した。



 文責 空手道部1回生 渡辺 徳弘



押忍、渡辺先生御一筆頂き誠にありがとうございます。 幹部一同


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